昭和49年03月31日 朝の御理解   



 御理解 第78節
 「神の機感に適うた氏子が少ない。身代と人間と達者とが揃うて三代続いたら家柄一筋となって、是が神の機感に適うたのじゃ。神の機感に適わぬと、身代もあり力もあるがまめにない。まめで賢うても身代をみたす事があり、また大切な者が死んで身代を残して子孫を切らしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになって来る。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代も出来、一年まさり代まさりのおかげを受ける事が出来るぞ。」

 信心して神の大恩を知れば無事達者と云う、無事達者と云う事は、普通では平穏無事とこう申しますが、達者と云う事は、何時も健康だと、いわゆる壮健だと云う事です。けれども、果たしてそう云う、この今申します様な意味においても無事達者と云うのは、良い様であって、又有難い様であって、そう云う訳にはいけないと云う感じです。だから問題は、問題が例えばあってもです、それが障らないと云う事、達者と云う事は、いわゆる心が健全だと云う事。一つ今日はそう云う風に此処ん所を感じます。
 そこで神の大恩を知ればどう云う事になるかと言うと、まあ一番解り易く言うとね、神の大恩を判ると何時の間にか段々腹が立たなくなって来ると云う事。不平不足が無くなって来ると云う事です。だから無事達者と云う事は、只平穏無事と言う様な意味ではない。平穏ではなくてもそこに豊かな心でおれれると云う事なんです。心が健全ですからどの様な事でもね、頂いて行く。まあ言うならば病気をしておっても、有難いなと言う心がいつも常時備わって来ると云う事。
 皆さん感じられないでしょうか。信心頂く様になったら段々腹が立たなくなって来る。是は第一気短な人なんかが一番はっきりして来ると思うんですね、短気な人が、もう人のしておる事、言うておる事が一々腹が立ってたまらん、気短である。そこに気短とか気の長い人とかありますから、信心しておかげを受けると言う事はそう云う事じゃないと思う。要するに気短な人は、短気な人ははっきりそれが解ると云う事です。
 段々信心を頂く様にならして頂いたら、第一腹が立たん様に段々なって来た事に気付くくらいな信心を頂いておらなければ、信心を頂いておったと言えないと思う。いや信心を頂いておってもですね今日ここで、信心して神の大恩を解って行きよらんと思うんです。信心すると云う事は神の大恩を解って行くと云う事、只お願いをした事が成就する事だけがおかげの様に思うておったけれども、それ以前のものおかげを頂かなければならない以前のもの、そこに偉大なおかげと云う物を感じる事が出来る様になる。
 只氷山の一角に現われておる所だけがおかげではなくて、眼に見えない所今まで気付かなかった所にあれもおかげ、是もおかげと云う様におかげの世界が広うなって来る。だから腹が立てられなくなって来る立たん様になって来る。信心しておるから辛抱すると言う様な事ではない。是は私がもう本当に信心を頂かせて頂いておって、神様のいわゆる金光様の信心は神様の大恩が判って行くと云う事が信心ですね。
 金光様の御信心は言うなら天地の御恩徳が、段々判って行く所謂身体に心に染み込んで行く、それが金光様の御信心です。と言うても私は良い位だと思います。ですからねちょっとした事に心が傷付いたり、又は傷付けたり又はちょっとした事に腹が立ったり、不平が出たり不足を言うたりと、だからその程度に神様その程度にしか、神様の大恩と云うか神の大恩と云う物が、その位にしか解っていないのだと云う事になる。
 だから本当に一つね最近いつも言ってますように、本当に信心をわからして貰うと言う事は、信心が段々解って来たと言う事は、神様の大恩が解って来たと云う事なんです。金光様の御信心では、ですからあの豊かになれる。いわゆる第一腹が立たん様になって来た。不平不足が出ない様になって来た。私は無事達者とはそう云う事だと思うのです。ね。「信心して神の大恩を知れば、無事達者で」と云う事は、私が今申しました様な事だと、だから問題がここに無い、無くなってしまう。
 平穏無事と言う事はない、嵐の様な日もある。けれどもそれが健全な心で受けて参りますから、一つも障ってない。いわば腹も立たなければ不平も不足も言わなくなって来ると。今日は一つここの所を自分の信心を確かめて見て頂きたいと思うです。もう五年信心しておる、十年信心しておるがどの程度に神の大恩が判って行っておるだろうかと云う事です。その神の大恩が判っただけが無事達者なのです。成程それなら子孫も続き身代も出来、一年まさり代勝りにおかげが頂ける代うになって来ると言う事です。
 考えて見るとたったその位の事が苦になったり、心配になったり腹が立ったり不平が出たり、不足を言うたり。所が事実はそれがありますけども、それが段々陰をひそめて薄うなって行きよると云う言うならば、段々腹が立たなくなって来たと、ほんに腹立ったのは何時じやったじゃろかと、腹が立つのを忘れる位にね、一つなって行ったら信心が有難い、愈々楽しいものになって来ると思んです。私はその事を神の大恩を知れば無事達者とはそう云う事だと思うです。
 自分の心も傷つかない、人をも傷つける事がいらなくなって来る。そう云う信心を本当に身に付けて行きたい。腹が立てたら馬鹿らしいから腹立てんと言った様な、計算づくで腹立てんと言った様な物じゃなくてね、ここをぐっと堪えなければならん。それは始めはそれで、稽古の過程はそれで良いけれども、私は今日は本当に信心を目指しておるならばです。何時の間にか自分がそう云う豊かな心になって行っておると云う事が有難いと気付く。そう云う信心をね、私は愈々身に付けて行きたいと思う。
 気張らんなりにね、言うならば大海の様な信心になって来る訳でなんです。四神様の御教えの中に、「竹の筒に水の溜まった様な信心だから、それではボーフラぐらいなおかげしか受けられん。ボーフラが湧く」とこう仰っとります。大海の様な信心をすればです、鯨が棲む様なおかげにもなろうと仰っとります。大海の様な信心が段々に出来て来る様になると言う事です。それは流れ込んで来る物は、もう普通で言うならばそれこそ腹の立つ様な事も流れ込んで来る。不平不足を言わにゃあならん様な物も流れ込んで来る。そう云う物が流れて来る様な事ではないと言うのではない信心は。
 無事達者と何時も無事で何もない、平穏無事と云うのではない。信心していてもどう云う物でも流れ込んで来るけれども、言うなら、竹の筒に水が溜まっておった様な信心から段々おかげを頂いて来る。大海の様な信心に何時の間にか、心が豊かに大きくなって行く。平気で、平気であると云う事は無事であると云う事、又黙って受けられると云う事は心が健全であると云う事、何時の間にか病気をせん様になって来た。
 病根が切れて行くと云う様にですね、そう云う腹の立つ云うならば、虫が心の中から段々取れて来ると云う様な信心、それには只、修養位の事では出来ん、いわゆる神の大恩が判らなければならん。善導寺の初代が頂かれたと云う『こりを積ますな、こりを積むな身を慎め』とこう頂かれた。私は「こりを積むな」と云う事は、例えどう云う事があっても、今申します様に大海の様な心で受けていけばいいけれど、しかし、「こりを積ますな」と云う事は大変難しい事だと云う風に言うても来たし、思うても来た。
 けれども、この神の大恩がわかって、今私が申します様に無事達者のおかげを頂くならば、成程、相手に傷を付けなくてすむと云う事を思います。まあ向うが勝手にこりを積むなら仕方がない。と云う風に私は思うておったけども、それはまだ過程である。確かに神の大恩が判って無事達者のおかげを頂いたら、相手にこりを積ませんでもすむ、もちろん自分もこりを積まんですむと云う、そう云う信心がね、そう云う信心がこう身に付いて行っておると云う、私は信心をさせて頂きたいと思う。
 それが、判りやすく申しますと、腹が立たん様になって来た、不平不足が出らん様になって来たと言います。身を慎むと云う事は、自分の身を慎むと云うそう云う事だけではなくて、やはり無事達者ではない。自分の心が穏やかではない。その穏やかではないその心をね、治めると云う事が身を慎む事だと思う。それが稽古なんです。そしてそれを押さえんで済む、何時の間にか何でもない様になって来る。
 そこから初めて、子孫も続き身代も出来一年勝り代勝りの、信心のそう云う土台と云う物がです出来てはじめて、所謂代勝りのおかげと云う事になって来るです。一年勝りのおかげ、一年勝りにね自分の心がね豊かに大きくなって行くと云う事だと。それにはねそれに取り組んで修行すると云う事も、成程身を慎むと云う事になりますけれども、まずは神の大恩を知らなければならない。神の大恩が判って来る所からです。所謂神の大恩が解って来る所から、おのずと心が豊かに大きくなって来るのです。
 そこんにきが、何時の間にか腹が立たん様になっておる。何時の間にか不平不足が出らんで済む様になっておる。そう云う信心を私は「神の大恩を知れば無事達者で」最後の所の「子孫も続き」とか「身代も出来」とか「一年勝り代勝り」という私どもが願っても、その願ってもやまないおかげと云う物はです。無事達者な心と云う物が先ず出来る事だと云う事です。その無事達者と云う事がです。只普通で言う平穏無事という、只健康であると云う意味ではない事を、今日は聞いて頂いたんですけども。
 それには先ず神の大恩を知る弧との精進が先であると云う事。この神の大恩を知ると云う神の大恩を頭で、頭で判ると云う事はすぐ分かりますね、お話を聞けば判るんですけれども、自分の心に何時の間にか何とはなしに染み込んで来ると云う事です。だから、見る物聞く物がです、嫌な物を見てもです。心に障らん様になり、汚い物をそこにいてもです。その中に言うなら神の姿を見る事が出来る。
 神の大恩を愈々深く広くわからせて頂くことは、そのまま自分の心が広く大きくなる事であります。だから無事達者と同じおかげが心の中に頂けてはじめて「子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受けられる」と云う事が言えると思います。どうぞ皆さん今日の御理解頂いてね、一つ自問自答して見てご覧なさい、どれ程自分が神の大恩を解っておるかと言う事は、心がね心の中にどれ程腹の立たん自分になっておるか、不平不足を言わんで済む様になっておるかと言う事が答えなのですから。
   どうぞ。